MAIN STORY
世界を旅する
Sicilian garden
シチリア島の暮春、市場からは賑やかな声
イタリアのシチリア島、その美しい風景と豊かな文化に魅了され、多くの人々が訪れる。標高3,000mを越えるエトナ山の恵みで育まれた柑橘園は、絶えず実りを迎え、古代の風景を今に伝えるとともに、地中海の温暖な気候と相まって、時が静止したような平和な景色を創り出す。
その静寂から、シチリアの街並みへ視線を移すと、歴史ある建物と石畳の道が目に飛び込んでくる。市場では新鮮な果物や魚介類が並び、地元の人々が賑やかに交流している。さらに、海辺に足を運ぶと、白い砂浜と透き通る海に出会う。ここでしか味わえない伝統的な料理を、波の音や風のささやきと共に楽しむことができ、美食家たちにとっては楽園のような場所だ。
この季節、シチリア島は観光客にとって理想的な場所だが、私はあえて柑橘園のある高原地帯へ歩みを進める。街を見下ろすと、日差しと風が穏やかに春から夏へと変化する様子を感じることができる。このゆったりとした時間の流れが、この島を特別な場所に変える。
目を閉じると、鼻先では彩り豊かな春の香りと実り始めた柑橘類の香りが重なり合う。
腹の底あたりから不思議と期待感が生まれる。
なんだかいいことがありそうだ。
Swedish bakery
ベーカリーで特別なフィーカの時間
北欧最大の地、スウェーデン。医療や福祉が手厚いこの国は、広大な自然に対して人口は少なく、のんびりとした時の流れが詩的に広がる。そこに住む人々は「フィーカ」と呼ばれる休憩時間を大切にしている。
首都ストックホルムにはベーカリーが立ち並び、その中には100年以上前から続く老舗ベーカリーもある。スウェーデン発祥の「カネルブッレ」は、馴染みの深い名前でいうと、シナモンロールのことで、フィーカには欠かせぬおやつだ。
本場のシナモンロールの秘密はスパイスに宿り、毎年10月4日の「カネルブッレの日」には町中が芳醇な香りに包まれる。
今回は、出張でスウェーデンに行くこととなった。そこには、普段耳にすることのない言葉たちやゆったりとしたスウェーデンの文化があった。しばらく戸惑いや焦燥感に駆られていたが、今では妙に心地よく感じる。
さて、そろそろ今日のフィーカの時間だ。カネルブッレと紅茶が私の前に広がり、部屋の中が香りで満たされる。
特別で贅沢なひとときが始まる。
Irish Halloween
大人と子どもの少し不気味な1日
2000年以上も前、アイルランドに住んでいた古代ケルト人の日記では、10月31日が1年の終わりとされ、最後の日には盛大なサウィン祭りが繰り広げられていた。この祭りは、収穫物を集め祝福を受けるためのもので後に「Halloween」となった。
死者の魂が現世に戻るとされるこの日、仮装は悪霊を欺く手段となり、その起源となるカボチャ「ジャック・オー・ランタン」は、悪事を働いた男・ジャックと悪魔の契約から生まれたものだ。彼は生前の行いが悪かったために天国と地獄のどちらへも行けず、今もなおカボチャに灯りをともして現世を彷徨っている。
今年もこの日がやってきた。準備は滞りなく行った。近所の子ども達の相手もほどほどに街へ繰り出す。例年通りの大規模な仮装パレードを堪能する。街全体の少し不気味な雰囲気は、明日が来ないのではないかと錯覚を与え、日常から切り離される。
疲れ果てて目を擦る。この異世界は変わらず毎年やって来て、今年一年の原動力となる。
Fuji forest
生命は力強く、そして繊細に
山中湖からみる富士山の悠然と煌めく姿は、日本の誇りである。四季折々の表情があり、毎シーズン観光客で賑わう一方で、富士の一端に魅了され、人生のすべてを捧げる人もいる。
今回は、早朝より登山道から一歩逸れて樹海の奥深くへ踏み込む。
木々の合間からは時折日光が差し込み、朝霧に反射した光が足元を覆っている苔やシダ類を優しく照らしていた。歩みを進めると、口を大きく開けた溶岩洞窟や不規則な迷路のように広がる大木の根が、私の足取りを重くした。富士の樹海には、神秘的な面と謎めいた面の両面が両立しており、次第に時間や場所の感覚を鈍くする。
虫や鳥の協奏曲が聞こえる。
ふと、この瞬間。いつの間にか私自身が自然に溶け込んだことを認識した。木や苔にある自然本来の淀み・くすみなどの繊細な香りまで、感じることができるようになり、それが妙に落ち着くことに気がついた。
荘厳な自然からすると、私は たわいのない 存在である。その現実が、今は何故か安心するものだった。
初めて、なにものでもない自分を受け入れた。
Swiss lakeside
景色の主役は移り変わる
ヨーロッパの中央に佇む内陸国スイス。水の城と呼ばれるほど水源に恵まれたこの国は、26の独立した州から成り立つ。公用語には、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ロマンシュ語、英語が使用され、町では数々の言語が舞い踊る不可思議な様子がみられる。
ここ数日、学生の時に経験したホームステイを思い出す。当時の町では、意識を耳に集中すると時計職人の息づかいや繊細な針の音が聞こえた。登山列車に乗ると、マッターホルンの険しい岩肌、中腹の草原、湖畔に咲く花畑、氷河、滝など自然の多彩な顔と共に、力強い表情も巡ることができた。
あのときに感じた表情は、いまでも細部まで浮かび上がる。
トラブルが起きたのか長文のメールが届く。また明日から振り回される日々が始まりそうだ。
地面を一定のリズムで蹴る音がホームに響いた。